小学生の時のお話(少年野球など)
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僕の小学生の時の話を書きます。僕は3月生まれなので
小学1年の時は6歳です。左京区の京都市立松ヶ崎小学校に昭和52年に入学したことになります。
当時は、40人学級で2クラスで一学年約80人くらいです。
僕らの学校もその当時で100年くらい歴史のある学校で
クラス名が、1組、2組でなく い組、ろ組です。
一つ下の学年だけ第二次ベビーブームで、は組までありました。
このクラスの呼び名は、中学では、他の小学校からの友達によくからかわれました。(笑)
中学以降は、1組、2組でした。 しかし高校の同級生の歴史のある学校の
卒業者は、上京区でも東山区でも同じように、い組、ろ組でした。
名簿も中学以降は、あ行からですが、小学校は、生まれた順番でした。
僕の後ろに一人だけ3月の男子がいたので、注射なんかは、後ろから2番でしたね。
ドキドキを引っ張らされる運命でしたね(笑)
必ず、先に終わった友達に「どうやった」と聞きますよね!(^^)!
これは、大きくなっても専門学校の実技の試験でもこんなんありました。
待たされている物はドキドキですね。
小学校は、今は北山通がはしっていますが、6年生までは、田んぼ道を
帰ってましたね。 小学3年からは、二人の兄の影響で少年野球に入りました。
松ヶ崎レッドエースといいます。岩倉のバッテイングセンターにも
父親によく連れていってもらいましたね。4年生くらいからピッチャーで
5年の初めに肘を痛めてかなり苦しんだのを覚えています。(病院も何度も行きました)
当時は痛いのを言わずに投げてましたが、その後ピッチャーは辞めました。
以前のブログでも書いたのですが、5年の後半からチーム名が変わりました。
松ヶ崎シャークスと変わり、ユニホームも変わりました。
その初代キャプテンが僕でした。当時は、平日も3回くらい練習があり
僕は、家まで走って帰り、自転車に乗り 低学年のチームの子と同じくらいの時間には
グランドにいました。(昔の宝ヶ池スポーツ広場、今は球技場)
それだけ必至でした。光化学スモッグも関係なし(笑)
当時の監督は、大学生や高校生で、非常に熱心に指導していただきました。
僕が引退してからも、「泰造(僕の名前)は、走って一番にグランドに
行ってたぞ」監督が後輩に語り伝えていたらしく照れ臭かったのを覚えています。
今でもシャークスは健在ですね。小学生は、おもっいきり体 動かしてほしいですね。
患者さんでも、少年野球の子供が来ていますが、
言葉使いなど敬語ができていたり、挨拶ができていて気持ちいいですね。
スポーツやると、そのあたりができていると絶対 印象いいです。
そんなこんなで野球の話ばかりでしたが、また書きたいです。
その後、中学・高校と野球をするわけですが、小学校での思い出のひとつ
雪の日、雨の日、暑い日、寒い日、マンガの話、テレビのひょうきん族の話
オリオン座や北斗七星を観ながらの自転車の帰り道
小学校だけでもシーンはいっぱいありますね。 また書きます。